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恒遠   醒窓(つねとお   せいそう)【1803(享和3)~1861(文久元)】

◆教育者   近世の地域教育を担った「蔵春園」創始者

 

上毛郡薬師寺村(現;豊前市薬師寺)に生まれ、17歳のとき広瀬淡窓の咸宜園(日田)に入門し、塾頭を務めるなどしました。その後、長崎への遊学を果たし、当時唯一海外に開かれた地で国際感覚を養った後に故郷へ帰り、1824年(文政7)に漢学私塾「蔵春園」を開くことになります。

江戸時代、庶民教育は主に寺子屋での「読み書き」「そろばん」などが主流でしたが、江戸後期になると民衆の学問への関心の高まりなどから私塾の開設が爆発的に増えます。豊前地域でも村上仏山の水栽園(現;行橋市)が知られ、蔵春園とともに子弟教育の場として重要な役割を果たします。残念ながら入門帳が残されてなく、蔵春園の入門者の正確な数は分かりませんが、約70年の間に九州各地はもとより中国、四国、関西などから3,000人以上の入門者があったと言います。

蔵春園の教育は「告諭」と呼ばれる生活の心得を基本に、学級を10級に分けて学問の向上に従って進級するシステムでした。学習のスタイルは素読(声を出し文章を読む)が基本で、段階に応じて輪読、講義、会読、討論会、独見会、作文作詩などがあり、学ぶことが主体となる教育が展開されました。

こうした教育を経て巣立っていった門人の中には時代を反映して勤皇、尊王の志士も多くまた、その後の地域のリーダーとなる人材も輩出しました。

1861年(文久元)、長州藩主毛利敬親は醒窓を藩校明倫館に招聘しようとしますが、病に倒れその生涯を閉じます。

醒窓亡き後、蔵春園は息子の精斎に引き継がれ、1895年(明治28)まで存続しました。幕末という激動の時代、教育こそがこの国を救うと考えた人々の生き様を今の時代にどう活かすか。真剣に考えなければなりません。

恒遠醒窓

恒遠醒窓(1803~1861)

 

 醒窓の自画像と漢詩「示学生之作」   醒窓の自画像と漢詩「示学生之作」

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