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高橋   庄蔵(たかはし   しょうぞう)【1836(天保7)~1891(明治24)】

◆公人   農民のため矢方池の構築に生涯をかける

 

上毛郡久路土村(現;豊前市黒土)の代々庄屋と務める家系に生まれます。17歳で恒遠醒窓の蔵春園に学び、若い頃からその才覚を認められ、庄屋や郡長(明治初期の地方の官職)などを務め、県議会議員なども歴任しますが事の本質は、足元を固めることと覚って地元の課題解決に挑みます。

その最たるものが肥沃ではあるが旱魃に弱い農地の整備で、そのためには何としても大規模なため池の構築が必要としてその実現に奔走します。

1878年(明治11)庄蔵は関係28ヶ村を遊説しその必要性を説きますが、余りにも大きな計画に同意を得ることが出来ず、10年後にようやく事業実施のための組織「利水土工会」の創立総会にこぎつけます。その概要は矢方谷に甲、乙、丙という三つの池を築き、受益水田500町歩、関係農家1447戸という上毛郡の約3分の1を対象とする壮大なもので、総事業費は14,883円余でした。当時の総理大臣伊藤博文の月給が800円、小学校教員の初任給8円の時代です。

工事は翌年に起工し、丙池はまもなく完成するものの乙池に取り掛かる頃から早くも資金繰りが悪化し、庄蔵は全財産の水田15町歩を売却し、さらに高利の借金をしてまでも事業を進めます。こうして苦難の末に1890年(明治23)に乙池が完成しますが赤貧洗うがごとき中、さすがの庄蔵も病床に倒れ、甲池の着工間もない1891年(明治24)、その完成を待たずして帰らぬ人となります。その後、庄蔵の遺志を受け継いだ矢幡小太郎らによって工事は続けられ、1900年(明治33)に甲池はついに完成します。

今も矢方池は地域の水田を潤し、そのおかげで農民は用水に困ることなく秋には豊かな実りを得ることが出来ます。何もかもが不足していた時代、地域の足元を見つめ個人を捨てて地域の為に尽くした不世出の人物であったと思います。毎年4月の田植え前には庄蔵の遺徳を偲び、矢方池の守り神として祭典が執り行われています。

高橋庄蔵

百年の塔

百年の塔

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矢方池そばの石碑。
字は読みにくい。

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甲池

 

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