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久保晴

久保晴(1898~1985)

 

「久保晴」は俳号で本名は久恒貞吉。三毛門小犬丸生まれ。
大正13年(1925)以降北九州市に居住。
保険会社に勤務のかたわら俳句の道に精進する。久保晴の俳号は、久恒の「久」保険の「保」、そして敬神崇祖の念篤い同氏であったために天照大神の「ハレ」(晴)の三文字に由来するという。

地元俳壇では「鴎」「数の子」「我等」「新大陸」「俳句文学」「春潮」「めかり」等に所属。中央俳壇では「旗艦定位」「風流陣」に参加し、戦後「夏草」(山口青邨主宰)「若葉」「冬草」に参加。
また地元門司をはじめ北九州で俳句文学の指導者として貢献された。
例えば、門司市立高等女学校講師、北九州文学報告会副会長。戦後NHK熊本放送局俳句選者、門司区俳句会会長、北九州俳句協会設立委員会長等歴任し、北九州教育功労賞受賞、全国俳句大会等で大会賞、文部大臣賞等受賞されている。

「先帝祭句集」は昭和59年2月、久保晴が赤間神宮に奉納した自著句集である。昭和初期より戦前、戦中を経て戦後までの333の句は同氏の俳句道の集大成である。

一切は空即色木の実落つ
ゆく春や無弦の琵琶をかきならし
昼ふかく露をふくめり白牡丹
後より太夫の髪結ふ男かな
花と咲く櫛や笄重からめ
歩をゆるめ大八文字をふみはじむ
太夫がふむ指十本の足力

久保晴

芭蕉の俳句は生きた宗教であり、一条の道である事を教えてくれた。私の俳句は、神事を通じて始まり、神事は私の生涯修行の道場と。それかあらぬか「お祭晴」の別号までいただいたとか。

和布刈火や轉 (うた)た傾く峡(かい)の海

燃えさかるたいまつが関門海峡1200年の伝統を照らし出す旧暦の元旦にあたる未明、小雪の舞う海峡でワカメを刈る古代儀式「和布刈神事」が、かま、おけ、たいまつの炎が躍り燃え尽きるまで新ワカメを刈り神前に供える、そのときの句である。いまも和布刈神社境内に句碑として建てられている。
昭和25年7月20日、海の記念日に除幕。八幡製鉄所から20キロ余りの銅板鋳込みの句碑が、宗祇の句碑のかたわらに建てられた。
除幕に際し、俳句の大御所高浜虚子より「宗祇の碑とならびあること先づ涼し」の祝句が贈られた。

先帝祭句集を終え40日ばかり後、氏は俳句人生の生命を燃焼しつくされた。87歳。

句碑