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幕末の私塾・蔵春園

蔵春園は、文政七年(1824)恒遠醒窓によって上毛郡薬師寺村に開設された漢学私塾で、恒遠塾とも呼ばれました。
恒遠醒窓は、十七歳の時、儒学者広瀬淡窓が主宰する私塾・咸宜園に入門、五年間を日田の地で過ごし、塾頭を務めたりもしました。長崎遊学後、二十二歳で故郷に帰った醒窓は私塾を開設、爾来、教育者としての道を歩み続けることになります。
醒窓の死後は、その子精斎が塾を継承し、明治二十八年(1895)までの七十年間、蔵春園の教育は続けられました。
その間、この塾の門を叩いた者は三千名にものぼると言われ、その出身地は九州はもとより、中国・四国・近畿・東海・北陸の各地に及んでいます。そして、明治維新革命の魁となった勤皇僧・月性や志士白石廉作、真宗教団内で「豊前学派」と呼ばれる一派をなして注目を浴びた東陽円月など、多くの素晴らしい若者が、ここから巣立っていきました。

蔵春園跡

往時の蔵春園内には、自遠館、夕陽楼、梨花寮、求渓舎、晴雪軒、遠帆楼、咬菜舎等の施設があり、若者たちで賑わったことが想像されます。現在は、塾を主宰した醒窓・精斎父子が使用した書斎の求渓舎のみを残すところとなりました。なお、求渓舎をとりまくように作られた庭園には、醒窓、精斎を学徳をたたえる記念碑が建立されています。

 

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福岡県指定史跡
昭和31年7月28日   指定
豊前市大字薬師寺570

蔵春園関係資料

蔵春園跡には、醒窓・精斎が使用した文机、硯、印、さらには入門簿、醒窓の日記、教科書類をはじめとする千六百点余の文書資料が保存されています。
また、醒窓・精斎の書に加えて、醒窓の弟の西秋谷(小倉藩医)や彼らと交流のあった広瀬淡窓、平野五岳、伊藤博文などの書も残されています。

 

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豊前市指定有形文化財(歴史資料)
平成10年2月13日   指定
平成14年月日   追加指定
豊前市大字薬師寺570

 

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