豊前の民俗芸能
芸能の起源は古く、その源は原始社会の呪術に始まるとされています。縄文時代に作られた土偶にも芸能の片鱗がうかがわれるという人もいますし、また、古墳時代の遺物である植輪には、踊る人、太鼓をたたく人など、芸能に関係するものがたくさんあります。
古代社会では既に支配者、被支配者の階級制度も確立していて、人々は支配者に対し服属のあかしとして、歌舞音曲をもって奉仕したともいわれています。例えば、隼人族が大和朝廷に対して隼人舞をもって仕えたのもその一例ではないでしょうか。また神魔を慰める魂鎮めの神舞や、五穀豊穣を祈る田遊びなどの芸能も古代に起こっています。
さて、日本では古くから朝鮮半島や中国大陸からいろいろな文化が伝来し、これらをもとに固有な文化が発達してきました。そうしたものの内、伎楽や唐楽は日本古来の和楽とともに宮廷芸能として朝廷の雅楽寮に所管され、これに対して一般庶民の間に伝承された芸能を、庶民芸能、または民俗芸能と呼んでいます。
かつて、豊前市にも神楽をはじめとする多彩な民俗芸能が伝承されていましたが、急激な生活様式の変化に伴い失なわれたものもあります。しかし、芸能は人の生活を楽しくさせ、生きる喜びを与えるものであり、だからこそ幾世代にもわたり受け継継がれてきたのではないでしょうか。
感応楽
大富神社では春の「神幸祭(じんこうさい)」、夏の「名越祭(なこしさい)」秋の「御供揃(ごくぞれえ)祭」と三つの大祭があり、中でも最も規模の大きいものが春の神幸祭です。この神幸祭(八屋祇園)の時に隔年で奉納されるのがこの山田の感応楽です。
感応楽は天地感応楽・国楽とも呼ばれています。舞の中心になるのは、中楽六人と団扇使二人で、団扇使は上裃(かみしも)に菅(すげ)笠、角団扇をもち楽の指揮をとります。中楽は前垂、ヘラの皮の腰蓑(こしみの)、赫熊(しゃぐま)をつけ、締太鼓を胸の前に抱え、背に幣を立てるという出で立ちで、中心的な役割を果たします。お囃子は笛・鉦で構成され、この他に読み立て・丸大団扇持ち、汐水取り、さらに側楽(がわがく)(花楽)として中楽と同じ服装で子供達が参加します。
中央に幣をたてて、団扇使い、中楽を内側に、側楽・囃子と三重の円陣を組んで、中楽は撥を大きく振りあげ太鼓を打ち鳴らし、激しい動きを通じて神と感応する、という舞楽です。
国記録迸択文化財
国指定重要無形民俗文化財
令和2年3月16日指定
※国指定重要無形民俗文化財となったことに伴い、名称が「山田の感応楽」から「感応楽」に変更された。
豊前感応楽調査報告書2019(表紙)(PDF:11,478KB)
大富神社の神幸祭(八屋祇園)
この神幸祭は江戸時代までは名越祭と同時に旧暦6月29日に行われていましたが、明治初年に名越祭と分離して4月30日、5月1日に行われるようになりました。神幸祭の起源は古く『宗像八幡宮縁起』によると聖武天皇十二年(740)、大宰府の藤原広嗣の乱に際し京都郡大領(たいりょう)外従(げじゅ)七位上(なない)田勢麻呂(だせいまろ)、上毛(こうげ)郡擬(ぐんぎ)大領(たいりょう)紀宇(きのう)麻呂(まろ)等、五郡の太守らが出兵します。そして翌年には乱を鎮圧して凱旋し、八屋八尋浜に御輿を奉納して茅輪神事の行法など行ったのが名越祭(神幸祭)の起源だといわれています。この神幸祭の行列はその時の紀宇麻呂が凱旋する姿を模したものと言い伝えられています。
祭りは、神前で幣を立てた船形(船御輿)のまわりに一文字笠、紋服、白扇姿の唄衆が蹲居(そんきょ)し、船歌を唱和することから始まります。さらに感応楽の奉納がすむと、笛衆・笠鉾・船形・神輿三台・神職が乗った神馬(しんめ)の順で巡行を始め、途中八屋の町では幟を立てた船車や岩山・人形をのせた飾山、さらには少女歌舞伎が演ぜられる踊り車等の山車が合流し、御旅所である八屋の八尋浜の御神幸場を目指します。山車は夜半まで思い思いにねり歩き、町は祭り一色に染まります。
翌日、行列は再び大富神社を目指しますが、二日間にわたる祭りは豊前を代表するものです。
福岡県指定無形民俗文化財
昭和31年7月28日 指定
豊前市大字四郎丸 大富神社
角田八幡神社の豊前楽
角田八幡神社の豊前楽は祭文によれば貞観六年(864)にはじまるといいます。もともと田楽は田遊といって田の神の降臨を願い、五穀豊熟を祈る田の神への鎮魂を念ずる芸能であったといいます。
豊前楽はもともと角田八幡神社の春の神幸祭(5月19日、20日)で奉納をされていましたが、今は5月の第三土曜日に隔年で奉納されています。かつては角田、松江、西角田の三地区で盛大に執り行われ、楽打ちの他に二台の山車(西町七社神社、恵比須神社)三台の御輿(馬場、畠中、西角田)、二台の傘鉾(中村)が参加していました。そして行列は角田八幡神社を出発し馬場、中村、畠中を巡行して、西廻の年は松江の七社神社に、東廻の年は恵比須神社を御旅所として一泊し、翌日には再び角田八幡神社へ帰るルートを辿りました。
現在は角田、松江の氏子により執り行われていて、楽打ちも二年に一度神楽と交代で行われ、これに御輿と傘鉾が加わります。
豊前楽は囃し方6人(大太鼓、小太鼓、大鉦、小鉦、笛)、踊り方二十人程度、読立一人、介添人一人で構成され、読立人が祭文を読み上げた後、やや小ぶりの太鼓を胸に抱えた踊り方がお囃子に合わせて、右に左にと回転しながら舞います。太鼓は比較的ゆっくりとしたテンポで、笛、鉦と絶妙な音色を醸し出します。
子どもたちも少なくなり、昔は担いだ御御輿も台車に乗りましたが国土安全、氏子繁昌を祈り、今日まで舞い継がれています。