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近世の交通と石造品

長い戦乱の時代が終わり、幕藩体制も安定し平穏な社会が復帰するにつれ、各藩は産業文化の振興に力を注ぎ、流通経済の進展によって人馬や物品の往来が盛んになります。
17世紀初頭、小倉藩では豊前道のうち下往還(中津道の一部)と呼ばれる街道が拡幅新設され、寛永三年(1626)には、忠利が支配する本藩小倉領と、忠利の父三斎(忠興)の中津領とを含めた領内の主要道に、三十六町(約4キロメートル)毎の一里塚を築き、桜を植えて通行人の安全保養、旅程賃金の目安となる便宜をはかりました。
その後、作製された正保国絵図(1647)、元禄国絵図(1701)の控之図、その他江戸後期の古図等を見ると、村名、村高、山、川、渡し、一里塚、国境、郡境、道路等が描かれています。そのうち主要道路としては

 

  • 豊前道(分岐点四郎丸、元禄図では八屋村中より豊後道を経由、塔田原で上往還に合流。)
     豊後道=上往還、勅使道、ウワ道とも言う
     中津道=下往還
  • 求菩提道(八屋西、中、中津より三道が下河内四ツ口で合流。元禄絵図には記載なし。)
  • 友枝道

等が記載されています。

文政四年(1821)、宇島港築港の大事業が始まり、七年の歳月と莫大な労力と費用を投じて豊前東部第一の良港が完成し、海上交通の整備も行われます。この間文政七年(1824)には友枝道のうち、赤熊、岸井間の道路が新設され、築港完成とともに町筋の街路の整備と中津往還の修復が行われました。
これらの主要道路には郡界、藩界の傍示石が建てられていましたが、現在でも市内及び隣接町に数基残されています。小倉藩の領国支配、街道筋の盛衰、交通路の変遷要所を知る歴史的遺産として、大切に保存してゆきたいものです。

上毛・築城の郡界石(1基)

市内で知られる古道には、古代より敷設された宇佐街道、近世初期細川氏によって新たに設けられた中津街道があります。この両街道が合流する広山より西1キロメートルの地点に小河川境川が流れています。この川が旧豊前国上毛郡と築城郡との郡境で、橋のたもとに設置されていた道標が郡界石といわれるものです。
律令時代に、郡が設けられてから両郡の郡境に大きな移動があったとは考えられませんが、郡境の道標は時の流れとともに何度かの造り替えが行われたと考えられます。現存の郡界石は江戸時代のもので、戦前道路改修の際隣接する神崎氏邸内に移設されています。
古来よりこの街道を往来する多くの旅人たちにとって、この郡境石は旅の目的に近づく確かな歩みへの道標となったことでしょう。過去を知る歴史遺産として大切に保存したいものです。

 

豊前市指定有形文化財(歴史資料)
平成14年月日 指定
豊前市大字四郎丸1307

 

 

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