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史料に見る近世社会

写真   高橋家屋敷

 

市内には昭和20年代まで近世のこの地方を知る多くの文献史料がありました。大村(友枝)、三毛門、久路土、岸井、角田手永の文書をはじめ、神社や寺院の社寺文書、幕末豊前地方の豪商として栄えた小今井(万屋)の商家文書などです。
手永文書では幕藩体制化の領国支配機構、各村の戸口(ここう)、村高、貢租(こうそ)、土木、産業振興等、領国経営の様子が、また、手永日記には江戸時代末期に幕藩制度が崩壊に向かう中で、領内の混乱と窮状とがつぶさに記されています。
大富神社や嘯吹八幡神社等に保存された寺社文書では、その縁起をはじめ諸祭記、神社改帳、社宝、寄進帳、神事芸能等によって神社の歴史や氏子集団、信仰形態を知ることができます。寺院のそれも同様で、某寺院の過去帳には死亡者が記録された行間に、同時代に起こった社会事象が書き込まれるという特異なものもあり、歴史資料としても大変貴重なものと言えます。
残念なことに戦後社会の大変動の中で、友枝、三毛門手永の文書をはじめ万屋文書等の殆どが他市の大学や図書館などに流出、保管され、現在は小倉新田藩の手永大庄屋役を勤めた矢野家の断片的文書と、大富神社、嘯吹八幡神社などの社寺文書しか残っていません。
郷土の過去を深く知り、理解する為にも古い文書をよりよく保存することが、大切なことと言えます。

日吉(ひよし)神社本殿

延暦七年(788)最澄が比叡山に延暦寺を創建し、天台宗を広めるにあたり、護法の神として同山東麓に日吉(ひよし)山王の社を建立しました。その後、全国に三千八百余りの日吉山王社が建立さたと言われますが、この日吉神社もその一つと考えられます。
日吉神社の所在する大河内(如法寺押領以前は小野村という)はかつて求菩提山護国寺の寺領であったことから、同山の山王社を勧請したものと思われます。本殿は元禄十三年(1700)に再興され、柿葺(こけらぶき)、一間社流れ造りの小ぶりの神殿ながら、再建当時の面影をよく残していて、旧豊前地域では最古の神社建築として極めて重要なものです。本殿が三百余年の長い年月を越えて保存されてきたのは、本殿を風雨から守る覆屋を設けて保全に努力した氏子の力によるところが大きいと言えます。

 

写真

豊前市指定有形文化財(建造物)
平成14年月日   指定
豊前市大字大河内471-1   日吉神社

石清水八幡神社歌仙板絵馬(五枚)

石清水八幡神社は平安時代中期創建の古社で、鎌倉時代には宇佐八幡宮弥勒寺の荘園となり、黒土荘十カ村余の総社として住民の信仰を集めました。寛永九年(1632)には、豊前六郡の領主として小笠原氏が入封(にゅうぶ)し、その後、上毛郡内一万石を真方(さだかた)に分割相続させて、新田藩が成立します。以来、石清水八幡神社は明治初年まで新田藩の祈願所として領主の社参又は代参が慣例となりました。
この歌仙絵馬は享保元年(1716)に時の藩主小笠原貞正によって奉納されたもので、一面の板に六歌仙づつ都合六枚に三十六歌仙が描かれていたと思われますが、現在そのうち五枚が残されています。絵師は海北有倩(ゆうせい)という人物で、狩野派の流れをくむ巨匠海北有松の高弟です。歌書は井関与左ェ門の筆によるもので、共に小笠原家のお抱え絵師、書家です。この歌仙絵馬は京築地方最古のもので、多少の損傷はありますが、芸術的価値も高く、大切に保存したいものです。

 

歌仙
歌仙
歌仙
歌仙
絵馬
絵馬
絵馬
絵馬
絵馬
絵馬

豊前市指定有形文化財(絵画)
平成14年月日   指定
豊前市大字久路土   石清水八幡神社

矢野家の文書(197点)

矢野家は寛永九年(1632)、弥右ェ門が大村手永大庄屋に就任し、その子治知が小倉新田藩成立後、久路土手永大庄屋を命ぜられるなど、代々大庄屋役を世襲した家系で、何度か岸井手永大庄屋へも転任又は兼帯をした家柄でした。
文書は寛文十年(1670)より明治五年(1872)にわたる資料で、手永配下の田畑水帳、免相(年貢)改め、池築造、溝成田、坪付、池樋替、水論検分申渡書、触状、諸取立手鑑帳、布教禁止?状、巡見上使覚帳、奉幣使夫役、諸証文、書簡など多彩な内容をみることができます。ただしいずれも断簡的で、藩政につながる大庄屋の地方文書としてはやや迫力に欠けるようです。しかし、当時の世相を知るうえで市内に現存する数少ない文書資料であることも事実です。

 

豊前市指定有形文化財(書跡)
平成11年6月21日   指定
豊前市大字久路土873-3

 

 

 

 

 

 

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