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修験道文化と平安の仏たち

平安時代中期、日本古来の山岳信仰と外来の仏教、道教、陰陽道などが習合して、修験道という日本独特の宗教が成立します。その後修験道は全国各地で広がりを見せ、平安時代末期には豊前地域でも英彦山、求菩提山、六郷満山を中心に、華やかな修験道文化が展開します。
一方、京都を中心とした仏師の流れは次第に地方への拡散を見せ、各地で地方色豊かな仏像作りが見られるようになります。豊前地域で見られる平安仏はこうした時代背景の中で遺されたと考えられ、地方にありながら優れた芸術性を持つ仏像群は、はからずも求菩提山修験道文化の質の高さを示すものといえます。
現在、市内で確認されている平安仏は都合二一体で、うち、1件は当時としては珍しい石造品の単独仏です。その作風は六郷満山のそれにも通ずると言われ、宇佐八幡宮を軸として、西と東に花開いた修験道文化の接点を見るようです。

 

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豊前市大字岩屋   岩洞窟

木造千手観音立像

挾間の観音としてよく知られている仏像で、像高は211.2センチメートルという大きなものです。現在は岩壁を背にする収蔵庫に安置されていますが、かつてはここに岩屋山泉水寺と言うお寺があり、その本尊としてこの千手観音が祀られたと言います。
像は樟材の一木造りで、頭部は小さな宝髻(ほうけい)を結び、天冠台(てんかんだい)を彫り出し、垂髪(たれかみ)は束ねて耳から両肩の天衣にかかるように彫り出されています。顔は張りが強く、切れ長の眼に小振りの鼻、唇が表現され、全体に童顔にまとめられています。また、肩からかかる条帛(じょうはく)、天衣には軽やかな流を見ることが出来ます。
合掌手(がっしょうしゅ)は臂(ひじ)のところからつけられていて、千手観音独特の脇手は扇状の板に半肉彫りに刻まれ、光背風に作られています。
その特徴から古様な仏像で、平安時代後期でも早い時期に作られたものと考えられています。昔、母乳の出が悪い母親がここの水でお粥を炊いて食べたところ、よく出るようになったという伝説が残されていて、別名「乳の観音」とも呼ばれる温かい像です。

 

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国指定重要有形文化財(彫刻)
明治39年4月14日   指定
豊前市大字挟間   千手観音堂

木造不動明王座像

樟材による像高144センチメートルの座像で、破損摩滅が激しいものの、千手観音立像(重文)と同時期の平安時代の作と考えられています。
求菩提山の末寺の一つである松尾(まつの)山に伝わる『松尾山縁起』(「太宰管内志」松尾山医王寺の項)には、松尾山の末寺十三箇所のうち「第十二岩屋山泉水寺者観音不動」と書かれていて、千手観音とともに祀られていたことがわかります。

 

木造不動明王座像

豊前市指定有形文化財(彫刻)
昭和59年11月22日   指定
豊前市大字挟間   千手観音堂

木造不動明王座像及脇侍二童子立像

不動明王坐像は像高132センチメートルで、頭部から体部にかけて樟の一木で彫り出し、膝前と左右の腕は別材で、寄木造りになっています。また、羂索(けんさく)をもつ左手と剣を構える右手は肘から先が後に修理をされています。
面部の目鼻立ちは力強く表現されていて、側面から見ると面奥に比べて胸の厚みに欠けるものの、古式な構造の中に藤原末期の技法を見ることが出来ます。
この不動明王の脇侍である矜羯羅(こんがら)童子(座高115センチメートル)と制咤迦(せいたか)童子(座高118センチメートル)も損傷が激しいものの、やはり樟の一木を用いて頭部から足?まで彫り出し、腕は両肩からつないでいて肘から先を丸柄で連結していたと考えられます。
市内に残されている仏像としては唯一、三尊形式(さんぞんけいしき)をもつ貴重な資料といえます。

 

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豊前市指定有形文化財(彫刻)
昭和59年11月22日   指定
豊前市大字畑   猛勇神社境内

白山神社石造如来形座像(残欠)

平安時代の作と考えられる仏像で、石造品としてはこの頃一般的に見られる磨崖仏ではなく、本体及び台座を単独に彫り出した単独仏という点で珍しい例と言えます。こうした例は県内はもとより石造美術の本場大分県でもあまり類例を見ることが出来ず、極めて貴重な資料です。
この白山神社の対岸には古く流泉寺というお寺があり、如来形座像はもともとここに安置されていたと言われています。
ほとんど原形をとどめていないため全体像は分かりませんが、わずかに残された頭部や胸部、台座などから秀麗であったであろう往時の姿を偲ぶことが出来ます。

 

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豊前市指定有形文化財(彫刻)
平成8年7月11日   指定
豊前市大字下川底   白山神社境内

木造地蔵菩薩座像

樟の一木造りで像高65センチメートルのやや小ぶりな像です。全体に摩滅が激しく正確な姿はわかりませんが、ふくよかな顔とやさしいプロポーションをイメージすることが出来ます。また、背面には次のような墨書銘が残されています。
干時寛永弐年
九州豊前国上毛郡狗カ岩屋道遍地蔵菩薩奉再興所如佛
十一月十九日   願主□□敬白
右同国佛師   和泉守
つまり、「和泉守」という仏師によって寛永二年(1625)に作られたことがわかりますが、これは求菩提山にある「役行者」像を制作した和泉守吉次と同一人物と考えられます。

 

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豊前市指定有形文化財(彫刻)
昭和59年11月22日   指定
豊前市大字岩屋

 

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