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古刹常在山如法寺

常在山如法寺の開基については様々な伝承がありますが、求菩提山修験道とのかかわりでその歴史が明確になってきます。仏教では、写経のことを「如法経(ねふぎょう)」といいますが、如法寺は求菩提山護国寺の末寺の一つとして、文字通り写経所の役割を担いました。求菩提山や英彦山の「銅板法華経」はこの寺で彫られたものと言われます。また、如法寺は求菩提山の北東方角、すなわち「鬼門」に位置していて、悪魔や邪霊(じゃれい)が入ってくるとされた鬼門を守護するための寺院でもありました(鬼門封じ)。
鎌倉時代、宇都宮氏が下野国から豊前国へ入り地頭職に任じられると、やがて如法寺も宇都宮氏の支配下に置かれ如法寺氏を名乗ることになります。とりわけ戦国時代には、寺は如法寺氏の砦のごとき様相を呈したと言われます。そして、宇都宮氏の滅亡と共に、如法寺も兵火にあって焼失し、以後約100年の間まったくの廃墟(はいきょ)と化してしまいました。
しかしながら、江戸時代(延宝から元禄期にかけての時期)に入って、如法寺は広寿(こうじゅ)山福聚寺(ふくじゅじ)の法雲禅師の手で復興され、黄檗宗の寺院として再出発を遂げることになります。
十七世紀以降今日に至るまで如法寺は黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院としての歴史を刻み続けています。しかしながら、山門には平安時代末期の作とされる金剛力士像が立ち、本堂正面には室町時代期の作である如意輪観音像が安置されています。さらに、寺の境内には不動明王が祀られている不動堂、全国六十余州の神々を勧請して祀る石龕(せきがん)、経筒や宋磁の破片が発見された鏡池、白山神社等々もあって、求菩提六峰の一つとしての、また天台宗寺院としての面影を今にとどめていると言うことができます。
求菩提山の修験道文化を伝える重要な遺跡として、一括して国の史跡に指定されました。

 

写真  如法寺地区

如法寺地区(求菩提山)

末如法寺境内には様々な時代の遺構、遺物が残されていますが、本来の密教寺院として注目される場所がいくつかあります。発掘調査によればその創建期にあたる一二~一三世紀には、現在の本堂に重なるように当時の中心的な建物が確認され、堂ノ本地区では宝塔が建立されていたと推定されています。また、現在不動堂の立っている宝地院地区には一五~一六世紀の頃の本堂があったと思われ、その他にも座主屋敷、如法寺、成就院、光明院、中谷坊といった興味深い字名や、山頂の尾根筋には求菩提山を拝んだ遥拝所などが残されています。
創建当時、自然の地形を上手く利用して建立された如法寺の様子を知る手がかりと言えます。

 

国指定史跡
平成13年8月13日   指定
豊前市大字山内991-1外

木造金剛力士立像

如法寺山門に立つ金剛力士像は桧材を用いた一木造りで、像高は阿形(あぎょう)281センチメートル、吽形(うんぎょう)は280センチメートル、平安時代末期の作とされています。平安以前の仁王像の作例は全国的にもきわめて少なく、貴重な文化遺産と言わなければなりません。
像は内刳(うちぐり)がなされ背板で覆われていますが、その体内から木札(もくさつ)が発見されました。その木札によって、宝永四年(1707)に像の補修が行われたことがわかります。

 

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福岡県指定有形文化財(彫刻)
昭和50年8月14日   指定
豊前市大字山内991-1   如法寺境内

如法寺石塔群

如法寺の石塔群は、寺院周辺に散乱、埋没していたものを収集し、境内の丘陵地に復元再造立したもので、その数は二百数十基に及んでいます。石塔はおおむね安山岩、凝灰岩を材としていて、その多くは五輪塔ですが、宝塔、宝篋印塔、板碑などもあります。時代的には、鎌倉時代末期から南北朝にかけてのものが数基、他はほとんどが室町時代のものと見られています。宇都宮氏に従って参戦し戦死した者を供養するための石塔と考えられます。

 

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福岡県指定有形文化財(考古資料)
昭和43年2月3日   指定
豊前市大字山内966

如法寺写経水

 如法寺の寺号は写経に由来したものと言われています。また、求菩提山中興の祖・頼厳の高弟で、銅板法華経執筆僧の一人である円城坊厳尊は、この寺の住持を務めていました。境内には今なお写経水が残されていて、平安時代末期から中世にかけて、この寺が豊前地方の写経活動の中心を担ったであろうことを窺わせます。

 

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豊前市指定天然記念物
昭和60年3月20日   指定
豊前市大字山内966

如法寺の扁額および即非画像

如法寺には次の三枚の扁額が保存されています。

「円通宝(えんつうほう)   黄檗隠元(おうばくいんげん)書」(96×45センチメートル)

隠元は中国福建省出身の禅僧で、承応三年(1654)に来日。宇治に黄檗山万福寺を創建し、黄檗宗の開祖となりました。

「波羅密(はらみつ)   即非(そくひ)書」(92×30センチメートル)

即非は隠元に招かれて明暦三年(1657)に渡来、長崎の崇福寺に入ります。さらに小倉藩主小笠原忠真(ただざね)の懇願をうけ、広寿山福聚寺の開基となります。

「常在霊山如法禅寺   開山法(ほう)雲(うん)叟(そう)書(しょ)」(57×76センチメートル)

法雲は小倉藩士の家に生まれ九歳で出家、即非の片腕となって福聚寺開山を助け後に同寺の二代目住持を務めます。如法寺再興もこの法雲の手によってなされました。また、如法寺には喜多元規(きたげんき)作の絹本着色の即非画像が残されています(107×43センチメートル)。
いずれも、黄檗宗の寺院としての如法寺の歴史を見るうえで、貴重な資料ということができます。

 

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円通宝

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波羅密

 

豊前市指定有形文化財(彫刻)
平成10年2月13日   指定
豊前市大字山内991-1

如意輪観音像

観音菩薩は修験道で広く信仰されていますが、天台系では様々に変化する観音の中でもとくに「六観音」が重視されました。この如意輪観音(にょいりんかんのん)も六観音の一つに数えられます。如法寺の本堂に安置されている如意輪観音は、如意宝珠と輪宝を手にした一面六臂(いちめんろっぴ)の寄木造(よせぎつくり)の像で、像高は64センチメートル。解体すると、顔の裏面に「応永三年(1397)」の墨書が見え、室町時代の作であることがわかります。なお、江戸期に補修がなされ、その折に彩色が施されたと考えられますが、現在は製作時に近い姿に戻しています。

 

写真

豊前市指定有形文化財(彫刻)
昭和59年11月22日   指定
豊前市大字山内991-1

 

 

 

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