■起源 |
大正時代後期頃 |
■内容 |
講社の起源は大正後期に下毛郡真坂村佐知の「佐助」(本名広沢松次郎、神楽師名広沢渡)を師匠として、東上八社神社氏子中に神楽組ができたと伝えられます。一方、『八社神社明細帳』(年代不詳・神職棚成氏記)には、「本社祭式中、古来一種希有の旧例ありしも、明治維新に及び廃絶せり。曰く杵根舞、山人舞、競走等之あり。山人舞のこと、古老の口碑に存する所は、往古本社祭日、地方の若者共、山に薪を採り之を荷いて帰りける内、本社の神楽を見んものと楽しみつつ来たりみれば、既に神楽は事竟りたる時なりしかば、失望の余りに、さらば我等にて舞べしとて、鳥居前に蒔を下ろして戯れ遊び舞い楽しみたり。是即ち大いに神慮に叶い足りとて毎年礼式となりて、後には神職にて之を奏し奉りと云う。」とあります。
「山人舞」は「倭舞」と思われますが、「倭舞」は元来、山の神を迎える際の山人の舞であったとされます。しかし、農民の山の神は、冬は山中にあり、夏は里に降りてきて田の神になるという神去来の信仰の中にあり、とりわけ、霜月祭は豊穣をもたらした山の神への感謝をあらわすものであったとされ、「湯立」も霜月神楽に多く、祓い浄める行事と解されているといわれます。「杵根舞」は「幾禰」の舞と思われ、『古事記』や『日本書紀』に「天の宇受売命・・・天の香具山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戸に・・・踏みとどろこし、神懸りして・・・」とあるように、採物を持って身を浄め神霊を迎えて神態を演じたものであったと考えられます。
「式神楽」の一つである「掛手草」では二十八の歌を読む(一人が上句、他の一人が下句)。手草は一般的には採物ともいいますが、物忌のしるしと鎮魂の採物との二つの性格をもつものとされています。
また、「巫女舞」は御姫様二人の舞で、囃子も優しく、舞も優雅であり、友枝神楽の特徴ある神楽であるといわれます。 |
■交通 |
車 国道10号「宇野垂水」交差点を南へ、下田井交差店を左折後、直進約3kmで大字東上の宮本に到着。
JR JR吉富駅又は中津駅下車、タクシーにて約20分。 |
■文献 |
「豊前岩戸神楽」
−福岡県京築地域神楽講の実態調査−1996年3月 |