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随筆「山居の画学40年」

(昭和55年出版の画集より)


 山人の山居、狭間の山里に住むというのではない、都会の風にも馴染めないまま、生まれ故郷の気安さについ腰を据えたまでである。
 古人も自ら田舎児などと呼びながら、幕末文化、文政、天保の交通不便なご時世に、豊後竹田の辺地から屡京摂の間を往来したものである。当時の都会文運の風潮にも接触し、文人や画家などいわゆる文芸の人士との交流に画学や詩文の志向を研いたものと想われる。
 40年の歳月を回顧すると生活、画事とも容易ではなく坦々たる行程ではなかった。時には諸方の画旅に出て、伝統の文物美術の蹟を尋ね、東京、京都など都市に開かれる各種の展観などに接して、籠居の沈滞を破り、考現考古への契機を得、山居に還ってわが画事を推進することであった。


 さて山居に落着することになったのは、曽てない日本の戦争突入で、戦局も漸く不利になりつつその終わりに近づいた昭和18年の春。物資の不足も底をつく最悪の時期であり、寺の両親の抑止もあったが、生家を離れて独立の家居画室に拠りたいと古い農家を求めて移築を決意したのである。当時の新築は15坪に制限されていた。
 時局の不安、非常事態が逆に自分をかりたてて、一刻でも個我の仕事に生きたい希いを強いたのかも知れない。身辺には家業の傍ら画事に打ち込む友が転業を余儀なくされるという遽しい日本の状況であった。丙種合格という、あまり勝れた体躯でない自分も兵役のことが気遣われたのである。


 19年秋、戦時体制下で自由な画事の続行も許されぬことになり、近在の中津に、画友の勤める私立女学校の教職に就いたのだが、僅か20日許りの通勤で召集令状を受け、都会育ちの妻と生まれたばかりの赤ン坊を残して佐世保の相浦海兵団に入団する。11月1日である。
 20年2月、鹿児島海軍航空隊に転属し、4月8日、敵艦載機の襲撃で負傷して左手を失う。6月初め、霧島病院から東京目黒の海軍軍医学校に移り、義肢着用の訓練中に終戦となる。


 東京を発つ日、上野谷中町に親しいAさんを訪ねる。路上の菜園に丹精した茄子やトマトの接待に満腹する。激しい戦争から敗戦に急転の直下再会の一刻である。Aさんの決意、この敗戦により日本の負わされる賠償額は天文学的な数であり、到底家業の額縁製作など存続は不可能、宮城県に行き帰農するという。
Aさんは同じ九州、博多の産である。帰国の上その農作地を探すことを約束して別れる。人間の行路に結ばれる因縁を思うものである。今にして想えば全く見当外れであり、嘘のようなことだが、敗戦の当時、人心の怯えきって異常な状態では先の見当もなかなかで、疑心暗鬼、進駐軍の上陸などにも戦々恐々、巷間には流言飛語の不安が続いたのである。
 帰国して村の谷間に点在する山田の荒れ地になったもの1町3反許りを何とかして確保する。然し当のAさんの帰農がその後の事情で沙汰止みになる。


 荒廃の山田、この地に新しい現実が生まれて、親しい画友夫妻の入狭となり、共に桃源の芸術境作りに期待、その開拓に夢を託して真剣に取り組み、晴耕雨読を目標に共に苦労を重ねることになったのである。
 戦後食糧事情の窮迫した最悪の時期、漸く老来の寺の両親や弟ら家族総員の参加で、開墾の作業を続行する。食べた途端にもお腹はすいていて、額から体中脂汗のべっとり滲む開拓作業である。労働には全く不馴れの者ばかりの奮闘で、自分の如き隻手に、短柄の鍬を如何に振るうともなかなか捗らない日課であり、雨読の日が待たれたものである。
 友の婦人は初の産期になって山下しなければならず、やがて友をも送らねばならなかった。狭間の渓流に語らいの夢の数々を流して稔らぬ桃源の花であった。短い期間に傾注したまだ若い日の情熱が今なお深く残っていて、時に忽然と往時に返る想いがする。友にとってはひどく難儀であったと述懐する。
 とはいえ、山田の作業も全く放棄する訳にも行かず、なお数年、開墾の水田には稲作が寺の両親や弟、家族の間で人手雇いの助力で管理を続けねばならなかった。また所有の物件として存続のまま、その後地籍調査など人手を雇い事に当たらねばならず、雑事として煩瑣の種でもあった。
 里近い開墾地には稲に代えて梅の苗木を植え付けて、梅花の渓間に匂う頃は知人雅客のこの山径を辿るなどして狭谷に桃源多少の夢の彷彿されるところであった。昭和22、3年の頃であったか、明照寺の講話をおえられた曽我量深先生のご興を誘い、随行の友藤代兄と山渓に歩を運ばれたのも狭路に結ぶ清縁である。


 戦中から戦後、油絵具、画布の類のひどく粗悪であったのには閉口、作画に悩まされたものである。山狭に晴耕雨読の頃、山の幸筍や茸の類、蔬果菜根など厨房の品々を水墨淡彩の紙本画もモチーフにして写生に力を注ぎ、画興に浸ったものである。魚介の類から牡丹など花卉の写生、直接花園において墨筆を用いて牡丹の画冊や図巻作、菖蒲写生の長巻に発展する。菌茸の図譜や魚譜などの作を残したものである。
 油絵の仕事に難儀し、苦渋を克服するには随分時間を要したものである。当時の諸作を通してその感を強くする。どれ程の期間であったろう。作画の苦労は、勿論使用画材の故だけでないにせよ、現在のように品質もよく豊富な画材に恵まれる時、曽ての戦中から戦後の一時期が想起される。ものの粗悪や不足の経験も亦貴重である。画題に対する別途の嗜好も生まれ、わが画作上の大事な時期だったと思う。
 戦後の旅、画旅も交通事情や食事情などのため、久しい間思うに任せず、近辺の風景写生などに始終したものである。今は車で遠い迂回路をとっても時間的にはなお早く到着する。英彦山下の山里、祖父母や母の故里へ、曽て祖父らが徒歩で、時には馬の背で往復した山路を辿り、峠や峰を画嚢を担いで横断、その足跡を偲びつつ故人の眼にした景観に画筆をとるなど当時の想い出である。


 昭和29年春、漸く遠路の行旅を志して、友を誘い芭蕉翁奥の細道写生図巻作成に出遊する。現地の情景に画紙を展べつつ墨筆淡彩のぶっつけ本番の写生画作である。芭蕉の夏草の句碑の立つ平泉毛越寺の草原に折柄桜の咲き匂う樹下、土地の花客が酒酌みて唄う東北弁の炭坑節に写生の筆を走らせた一景も彷彿する。平泉の巻に写収するところである。
 平泉から逆に松島、塩釜、立石寺などを経巡り、越後に出て北陸へと旅次を重ねたものである。これを機に日本風物写生図巻の作成が自然と心に湧いて、油絵の画作と共に生涯の仕事に結ばれる。荒廃の日本、戦禍に残るこの国の各所、町や村落、名所旧跡の風情佳趣に触れ心底から詠い残したい。旅の心に滲みる所々数々の風物。


 わが画旅は隻手の不便もあって、油絵の写生道具の携行より、出来るだけ軽便な画具を選んで充分な効果を得るようにと次第に墨筆顔彩などの紙本画の材料を主として画嚢にする。これはやがて油絵の画作にも関連して工夫され、近辺の写生行には又色々の材料用具を試用する。
 昭和35年の秋から冬にかけて、祖師親鸞聖人の関東旧蹟地巡拝と聖蹟図巻作成の画行脚に出る。作すところ16巻あり、個の際は随分な重量の荷物を肩にし、隻手半腕に振り分けて図写の行脚に旅宿を重ねる。諸所に深い感銘の時をもったのを有り難く追想する。翌年は東海地区に、越えて44年、越後の聖蹟に図巻の補足を続ける。なお完結には更に機を俟たねばならない。他の風物図巻と共に一段の期待と画興誘発の機を求めている。


 昭和39年、インドの佛蹟巡拝を兼ねてタイ、ビルマ、セイロンの各地に仏寺や仏教美術、ヒンズー教の文化、建造物の遺構などを東洋美術の源流を尋ね見学の渡航をする。日本仏教文化連盟の一行9名に参加の行であった。
 これより先、終戦後の昭和24年頃、油絵の画作で難渋していた時期に洋画の勉強に欧州渡航を計画したが遂に果たせず。その後、時を経るままに画事の関心、その思考も変わり、曽て大谷卒業の昭和10年時代の課題に戻り、今一度東洋、日本の伝統を勉強の目標にして理解を深めるのを痛感する。昭和46年には再度インド、ネパール、ビルマなどの仏教国に渡航して関係の遺構に接する機会を得た。戦時中折角の機会であった中国渡行を逸したことは、残された大課題である。
 現在はすべてが容易に可能な時代になり、却って真実心から感激することが乏しくなったとも想われる。月の世界に飛んだり、居ながらに地球の各地の出来事、珍しいもの、又人類太古の文化の跡、埋蔵文物の発掘など、飽くない人間の知識欲にかられてそれらが直ちに電波に流されて見聞されるところ、却って人間の内心おぼろに抱く夢も消されてゆくように想われる。


 田圃で何もなかった屋敷に、今は雑木、山野の草木の茂り合う。樫の生垣の中一面が薮をなす。家築の記念に友におくられた白木蓮の苗木が成長して亭々と屋根を抜き、黒部のダム工事場に採った朴の小苗も高々と広葉をつけて、牡丹の花季の終わりには白弁に芳香を漂わせる。樟、欅、山桜など高性の植え込みの中に椿の大小が種々の花を晩秋から5月過ぎるまあで半歳以上見せてくれる。
 花卉はわが幼少からの愛好であり、年々歳々その種類を殖やしてゆく。中でも牡丹作りは寺に育った昔からで実生の花株も生育衰枯の家にも今日まで50余年の歳月である。菖蒲に次いで百合、浜木綿の夏花から桔梗、萩、小菊と四季の風情を見るところ。花につれて年次が進行する。然し、何といっても牡丹は好画題の筆頭であり、水墨紙本画作と共に油絵の画因である。これまでに何程画写したものか歳々画稿を重ねて来たところだが、未だその会心感応の作を得ない。更にまた歳春を待つものである。花作り、山居のことも実はその場や環境を求めるのにあったかも知れぬ。
 勿論、桜や梅、椿など老樹銘木や群樹の花状は出遊の画写に俟たねばならない。岐阜根尾の淡墨桜にも度々、山梨大菩薩峠の雲峰寺の老桜、京都の寺社の各所など屡次の画題でもある。昔、秩父登行の山中で遭遇した朝霧の渓流の崖上に観た山桜の風情は今も彷彿と眼底に在る。旅ならではの光景である。
 花ではないが戦争熾烈のさ中、鹿児島鴨池の航空隊に服役中、敵機の爆撃に曝されたあと、金色の夕陽を背景に立つあの桜島山の何とも荘厳な山容、刻々に茜色から移りゆく山肌、紫紅から遂に青藍に暗く沈む空間の縹渺たる感じ、何時の日かこの景に画筆を把ることがあろうかと暫し我を忘れた。幸いにも戦後は数度の機を得て対山する。山居に当時を追想する感銘。ただその絶対の時空によるところである。


 現代絵画の様相、西洋の近代絵画の影響を受けて全く多岐多様、殊に戦後の今日では、世情の変化につれて百花繚乱、千種万様、あらゆる画派がその美を競うところ。拠るところまた画理画論あり、思想や論理先行に個性の強調されるなど絵画芸術の観識の難しさである。又甜邪俗頼各々呼称、喧伝しつつ消費爛熟の文化、住宅設計の変化の裡に日本の絵画の伝統も材質ともに変貌拡大されつつ粧を別にしたようである。世界交流の大きな波動にも因ることであろう。


 山居の画事40年、何を課題に何を求めて来たものか、また何を向後に求むべきか、等々。然し別途に歩を転ずべくもなし。もっと純粋に自由に、より自在に既往の不備に徹してわが心泉を掘り下げつつ湧くものをみなお方寸の造形に盛り自然に呼吸したい果たせない未完の夢。



花園に

風もない

花の弁先が微かにゆれる

震えるように

花心へ弁々と戦ぐ

写す手をとめ

ふと 見上げる

喬い朴の広葉がゆれている

大空のもと 高き低きと

戦ぎの変る

傘下花に対ふ

一刻


1980年7月25日記

 

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