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聞き書き吉田達麿

(地域情報紙「くぼて」1995年6月号所載)


牡丹の画家、隻腕の画家として知られていた吉田ッ達麿画伯が今年2月、84歳で亡くなられた。遺作の数々は今も狭間のお宅にあって、鑑賞のために訪れる人たちの応接に奥様は忙しい日を送っているとのことだ。「春から梅雨にかけての牡丹や紫陽花の季節には本当に寂しい思いをしました。」という奥様に画伯のあれこれをお話し願った。


「吉田達麿と言えば『牡丹』と思っていらっしゃる方が多いようですけど、牡丹ばかり描いていたわけではないのですよ。」と、案内された部屋に置かれた遺作数十点に牡丹は1点だけ。確かに、昭和55年刊行の『吉田達麿画集』にも『牡丹』は思いのほか少ない。作品は風景から人物まで多岐にわたり、油彩、水彩など手法も幅が広い。
「師事した画家は特にいなかったのですが、セザンヌが好きでした。」
という画伯は、明治43年(1901)、狭間に誕生。生家は浄土真宗明照寺。小さいときから絵に抜群の才能を示していた画伯の一生は「絵を描くことに尽きていた」とも言える。毎年、牡丹の季節になると日がな一日、牡丹に向かい絵筆をふるっていた。その後ろ姿がそのまま画伯の一生を象徴していたとも言える。


真宗大谷派の僧籍を持つ画伯は、敬虔な仏教徒として一生を送った。作品にも仏教を題材としたものが多い。代表作でもある『踊るシバ神像』をはじめ、親鸞聖人の旧蹟を辿った図譜、インドの連作など画伯の仏教観そのものの発露としての作品が多く遺されている。
「朝4時過ぎには起きて、毎日欠かさず勤行していました。それはもう本当に感心しました・」
残りの時間は画作に充てられた。
「牡丹の季節にたまたま牡丹を描いただけなんです。牡丹が有名になって、皆様『牡丹の絵』とおっしゃいますけど、他にも素晴らしい作品がたくさんあるのですよ。もちろん、牡丹が好きではありましたけど。」


画集に載せられている年表によれば、画伯は昭和20年4月8日、鹿児島海軍航空隊にて艦載機の攻撃を受けて負傷、左手を失っている。その2年前、昭和18年に利夫人と結婚、翌19年、中津扇城高女に奉職、直後に応召。当時、既に春陽会会員、文展無監査と着実に画家としての地歩を固めていた矢先の負傷だった。
「左手で良かった、といつも主人は言っていました。左手の手首に被弾して切り落としてしまいましたが、左手で良かったと、負傷した瞬間に思ったそうです。」


終戦は東京目黒の海軍軍医学校で義肢着用の訓練中に迎えている。そのまま帰郷。再び、扇城高女に復職することもなく、戦後を一貫して野にあって暮らした。
「主人の戒名は『筥(正しくはクサカンムリです。異体字のためフォントにありません=編集部=)春院釈洞達』と言います。この庵も『筥(前注に同じ)庵』と言います。筥(前注に同じ)というのは『芋』という意味です。主人の名前に麿なんていうお公家さんのような字が使われているでしょう。だから『自分はそうではない。野人なんだ』ということをそれで示していたんです。」


年表によれば、『大正12年、築上中学入学、同14年、中津中学へ転校』。この転校の経緯にも『野人』吉田達麿が垣間見える。
「これは有名な事件なんですよ。当時柔道着に色々難しい言葉を書き込むのが流行っていたんです。それに主人は『教育勅語』の全文を書いたっていうんです。それが不敬罪に問われて、結局転校…」


転校した中津中学で本格的に絵を描きはじめる。『若葉の森』と題された秀作が遺されている。美校進学を目指すが、養父の反対にあい、大谷大学へ進学。専攻は東洋史学、後に国史へ転科するが、絵は描きつづけていた。予科2年の時、肋膜炎(結核?)で1年休学。終生の師であった小笠原秀実先生との出会いは復学後のことだった。

昭和10年、京都日日新聞社入社。だが、画業と仕事の両立も難しく、翌11年には『画業一途』を決意して退社。画家吉田達麿としての人生がスタートした。


「「ここ数年、体調が思わしくなかったんです。若いころ患った結核が再発していたんです。去年の夏、肺炎になりまして、そのままこの2月にこの家で亡くなったんですが、最後はとてもつらそうで『ひどいですか』と尋ねると『ひどいなんてもんじゃない』と応えていたのが忘られません。」
享年84であった。「もっと生きていて欲しかった」と奥様は何度も繰り返しておっしゃっていた。遺作の多くは今もご自宅に収蔵されている。
「主人の作品をまとめてご覧いただける美術館、小さくてもよいのですが、そんな美術館があればといつも思います。」
思い出話は尽きることがなかった。

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