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下村信貞

(明治32年3月1日~昭和30年4月2日)
満州国外交部次長。ノモンハン事件収束に尽力。

 

築上郡千束村大字千束(豊前市大字千束)の生まれ。父政雄は宇島、千束小学校長を経て千束村長を3期勤続した。信貞は大正6年(1917)県立中津中学校を首席で卒業し、無試験で第五高等学校(熊本)に入学し、9年、東京帝国大学法学部に進んだ。

当時民主主義擁護の論客であった哲学者、元早稲田大学教授杉森孝次郎のもとをしばしば訪問し、教授を通じて政治家中野正剛に紹介され、学ぶところが多かったが、中野も下村の将来に期待した。そのころアジアの解放が下村の持論となった。

大学を優秀な成績で卒業、しばらく東京第五中学に勤務し、やがて大連の南満州鉄道(満鉄)附属南満工業専門学校教授となった。瀬下米(父は代議士)と結婚する。昭和2年、満鉄ハルピン事務所情報部次席に転属した。ロシア語を独力で勉強し、2,3年のうちに一等通訳官の資格を取った。

6年、満州事変が勃発し、翌年満州国の建国に及んで同国政府に入った。外交部官房企画課長に就任し、政務司俄国(ロシア)科長を兼ねた。9年、外交部北満特派員公署(ハルピン)理事官に転任する。12年、日中戦争が起こり、同公署部長にに昇任した。同年11月、中野正剛が国民使節としてイタリア、ドイツ首脳を歴訪するに当たって、特に満州国に要請して下村をその一行に加えた。

13年、張鼓峰事件(国境紛争で日ソ両軍の衝突)が起こった。現地の状況を知悉する下村は、ソ連への厳重抗議の電報を押さえ、事態の沈静を図るよう上層部に要請した。このため新京(長春)の関東軍第四課(満州国の日本官吏の監督に当たる)の呼び出しを受け、課長と激しい対決をしたことがあった。

翌年5月、再びノモンハンで国境紛争が起こり、日ソの両軍の激突に発展し日本軍は大敗。大本営は停戦命令を発し、9月15日にモスクワで停戦協定が成立した。その協定による満蒙国境確定の一次、二次会議とも不調で、16年、下村が満州国全権委員に起用され、全長256キロメートルの国境線を画定し調印にこぎつけた。

昭和18年、外交部次長に昇任した。20年に入り、日本は敗色濃厚となり、下村はソ連軍の満州侵入の気配を察し、ソ連軍の平和的進駐の条件を探ろうとしたが、時すでに遅かった。8月31日、ソ連軍に連行され、ハバロフスク収容所にあること10年、長恨を抱いて病没した。

 

(本稿は豊前市史を転載したものです)