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真田   増丸(さなだ   ますまる)【1877(明治10)~1926(大正15)】

◆宗教者   民衆の救済に命をかけた宗教者

 

築城郡松江村(現;豊前市松江)にある浄土真宗の名刹、浄円寺に生まれ、第五高等学校(現;熊本大学)、山口高等学校(現;山口大学)を経て、1905年(明治38)に東京大学に入り宗教哲学を学びます。この間病弱だった増丸は宗教について考え、時に説法を聴聞しながら求道を続けます。そして、労働者への伝道を機に1917年(大正6)機関紙「仏教済軍」が産声を上げることとなります。

仏教済軍の活動は大牟田、広島、東京へと広がって行き、朝鮮半島にまで及びます。しかし1926年(大正15)、広く世界への伝道を夢に描く中、増丸は病に倒れ50歳という若さで急逝します。

東京大学の卒業を控えたある日、故郷の兄夫婦に送った手紙にその原点を見ることが出来ます。

「・・・小生は一経巻と黒衣と数珠を以って世界の教員たらん、宇宙の大教育者とならんとす。大学の教授何かあらん。幸いに増丸をして天の使命を完ふせしめよ。兄姉上様よ、愚弟増丸をして中学教員たらしむる勿れ。又学者たらしむる勿れ。一寺院の主人たらしむる勿れ。余をして仏陀の大使命を完ふせしめよ。社会の塩たらしめ給へ、薬たらしめ給へ・・・」

日本の近代化が進められる中、大衆の中にあって、その精神的な支えとして活動した姿勢は今も評価されています。

真田増丸