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鬼木   柳緑(おにき   りゅうろく)【1859(安政6)~1923(大正12)】

◆教育者   社会教育に通じた地域の教育を実践

 

上毛郡鬼木村(現;豊前市鬼木)に生まれ、幼い頃から勉学に励み、7歳で習字を始め9歳で千束藩校明親館(現;千束小学校)に入学、13歳で漢学者橋本塩岩に入門し、その後戸早春村(漢学)や増田秋峯(南画)にも教えを受けました。17歳で父の後を継ぎ旧鬼木村、永久村(現;豊前市鬼木、永久)の里掌(当時の村長)になりますが、まもなく辞任し、秋月(現;うきは市)の磯淳や玖珠(現;玖珠町)の孔萊蔵などに学び、21歳から4年間は恒遠精斎のもとで蔵春園の塾長を務めます。

1884年(明治17)には八屋に輔仁堂義塾を設立し、それまで得た知識を教える側に立ち、さらには久路土高等小学校(現;黒土小学校)の教員として漢文や図画を教えるようになります。

1904年(明治37)、日本はロシアに宣戦布告し日露戦争が始まります。このことを契機にまた、母の勧めもあり柳緑の活動の場は学校教育から社会教育へと移ります。講演会では手振り身振りに、ユーモア溢れる口調で聴衆を魅了し、処世と時局に対応する心構えを説いたと言います。そして、日常は方言を使い、うわべを飾ることなく洒脱な君子のような風格を持つ人物でした。

1923年(大正12)風雨の中講演会に出かけたことが原因で病に倒れ、その生涯を閉じます。大正デモクラシーの時代、社会教育を通じ、地方の教育に尽力した稀有な人物と言えます。

 

 

柳緑氏と愛玩の品

柳緑氏と愛玩の品

柳緑氏の記念碑

柳緑氏の記念碑

 

書と絵

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